安心で安全な場について思うこと

kaneshige

2009年04月08日 12:00

ワークショップとは・・・

参加型の活動のことを一般的に言うと思う。
クラフトを作ったりというような活動のこともそのようにいうと思うけど、
私がここで意味しているワークショップというのは

「なんでも話せる」「安心してそこにいられる」「グループの一員感がある」
そんな場で、特定のテーマで話し合ったり、「まちづくり」を考えたり
体験学習の場だったり・・・・

そんなグループ活動のことを意味している。


「なんでも話せる」「安心してそこにいられる」「グループの一員感がある」
そんな雰囲気を作り出すのは、ファシリテーターとよばれる、進行役の役割が大きいが、
もちろん参加者がそこに賛同して作り出していくものだ。
そういう場をつくることで、多様な考えを吸い上げたり、本当の合意に向けた話し合いをし、参加者が納得したアウトプットをめざしたり、学びを深めたりする。



で。

普段、そういう場って、「あるべき」なのに、意外にない。
会社での会議、趣味の場での会議、町の集会・・・・
一部の声の大きい人や、責任ある役割のある人が、発言して、流れができてしまう。
反対意見をいいたいと思っても、言える雰囲気じゃなかったり、疎外感を感じてしまったり、つまらないから、あるいは嫌われたくないから、だまっておこうになったり。

だからかな?

「なんでも話せる」「安心してそこにいられる」「グループの一員感がある」という場を経験したひとは、「ここに参加している人たちって特別!愛がある!」となって極端な参加の仕方になったり、ある意味「信者」のように振舞ってしまったり。
自分の悲しみや苦しみを共感して聞いてもらって感じたカタルシスに病み付きになって
ワークショップときくと参加し続ける、ワークショップフリークになってしまったり。


極端に走る人がいるなぁと思う。
それだけ、そういう場が求められている。
逆に言えば、いかに安心で安全じゃない場に、自分達が普段いるのかということを思う。



で、「なんでも話せる」「安心してそこにいられる」「グループの一員感がある」ワークショップというか、「場」に居合わせたときに、逆に「気持ち悪い」と感じてしまう人もいるみたい。
これって、なんか宗教?洗脳されている?なんてね。


実は、私も、そう感じてしまう場がときどきある。
ひとつ明らかなのは、音楽を活用する時。雰囲気をもりあげるような・・・ね。
あれはいただけない。私の中のアラームが鳴る。


音楽はないのに、「ちょっと気持ち悪いな・・・」と思う場・・・



どうしてそうなってしまうんだろう?
という問いがたった。




ひとつの仮説をたててみた。

「安心な場」を作るために、意図は違ったとしても、ファシリテーターのお願いしたグランドルールが、
「誰かの意見や考えを否定してはいけない」というようなルールとして、参加者に伝わってしまっていたとしたら。

自分が思っていることと反対の考えが誰かからだされたときに、これを口に出してはいけない・・・と、言いたいことがいえなくなってしまっているのではないか?


多くの人が肯定的なことばかりを口に出せば出すほど、気持ち悪いかんじがある。



本当は、違う考えや意見をどんどん出してほしいはず。

だけど、そのときに、自分とは違う相手を攻撃したり、非難したりするのではなく、なるほど、あなたはそう感じたのですね。と受け止めた上で、
実は私には、あなたとは逆の考えもあるんです。別の経験をしました。というスタンスで、あってほしいということだと私は思っているし、そう関わっているつもりだ。

ネガティブな発言、ちょっと異質な発言でさえ、あたたかく受け入れられる。
そうであってほしいし、そうである自分でいたいし、さらにいえば、その真意がどこにあるのかを明らかに出来る自分(ファシリテーター)でありたい。



気に留めておきたいことだと思った。

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