主張の裏側にあるもの

kaneshige

2009年04月18日 10:00

某所での会議にひさしぶりに参加。


事務連絡、報告事項などのあとに、「会議が発言しづらい」→「これを改善していこう」というような提案で、小グループに分かれて、討議した。
会議だけじゃなくて、これからのこの集団のありかたに発展してもいいんじゃないか?というような投げかけも。


久しぶりの参加、メンバーの顔ぶれの違い。この場の提案。
なにやら、不穏なかんじなの?私の知らないところで何がおこっていたのかしら?
なんて若干思いながらも、なんだか新鮮で、ちょっとわくわく。

まずは現状認識・・・ということで、ひとりひとりが話し始める。

さて、この「会議」が本当に発言しづらい場だったのか?
どうもそうとも言い切れないようだ。


個人の役割や参画年数(慣れ)の違いからなのか、発言しづらいと思った人と、そうでない人がいる。発言しづらいと思ったのは一部の人だけ。

でも発言するような内容があった会議だったのか?果たして報告事項ばかりではなかったか?


そんな現状を確認、区別していくと、提案してくれた人の「早く馴染みたい」「参画したい」「なにか自分がメンバーとしてできることを。貢献したい。」という思いが見え隠れしてきた。

「発言しづらい」という思いを肯定的に捉えると
「参画しているという意識を早く持ちたい。→活発なやりとりをするような会議をしたい」
「建設的な議論やプロジェクトなどの場がほしい」
そんなメッセージのように思える。


また進行役(ファシリテーター)という役割から感じる個人的ななにか・・・・

「雰囲気が悪い。誰も承認もせず、感想も話さず、表情も硬い。怒っているのか?非協力的な感じがする。これじゃ、活発な意見なんかだせる雰囲気じゃない」

→「もっとにこやかに雰囲気よく、自由な発言がなされながら会議をすすめたい。そうするべきだ。そうならないのは、問題だ」

みたいな感じがあるのかしら?このあたりは、昔、ファシリテーションの師匠にしばしば言われた事だ。

でも、本当に雰囲気が悪かったのか?
メンバーに確認すると、そうは思わないという人も多数。

私自身も・・・特に役割を背負ったときに、自分の思い描くとおりにならないとどこかで「問題だ」と思って、なんとかしようというエネルギーが働いてしまうことがある。
ときどき、点検したいところ。


もう片方のグループがどんな話をしているのか、詳細はわからないし、時間が短かったので、結論や次のアクションには至らなかったけど、いい現状認識と、意見交換会だった。
それぞれが、どんな気持ちでここに参画しているのかが見えてくる、そんな場でもあった。



そもそも、こういう場を持ちたいと発言できて、しかも時間がもてることが、開かれた場であることのように思う。
提案してくれたAさんに感謝。

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